といふわけで

目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず

ミルクボーイの漫才について本気出して考えてみた

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M-1グランプリの醍醐味といえば「無名のコンビが一夜の間にスターになる」というドラマ展開である。視聴者がこの大会に求めるものはシンデレラストーリーであり、そこに「ロッキー」の泥臭さが混じればなおのこと良い。

 

今回のM-1グランプリは私にとって史上最高の大会だった。今大会は「漫才はこうでなければならない。」という固定概念を根底から覆し、ボケの手数と声量で圧倒する、いわば「M-1で勝てる漫才」という競技じみた幻想をも打ち砕いた。そして何より、「681点」という史上最高得点が新たに打ち出された。これは始まりだ。この大会を境に、漫才は新たな境地へと到達するのだろう。

 

「漫才の高速化」の天井

まず、ミルクボーイのネタについて各審査員のコメントを見てみよう。

松本:いったりきたり漫才とでもいうのかな。揺すぶられたなぁ~。

   これぞ漫才っていうのを久しぶりに見せてもらいましたね。

 

上沼:今日一番笑いましたわ。ネタのセンスが抜群。

   この角度のネタのセンスを持ってくとは、すごくあかぬけてる。

 

はなわ:誰がやっても面白いネタ+この人達だから一番面白いというのがベスト。こういうネタも考えたことあるが出来なかった。

人の力と言葉の力とセンスが凝縮されていた。100点に近い99点

 

富澤:おじさんが「コーンフレークだコーンフレークじゃない。」

   それだけでもうおもしろい。何も考えずに笑える。よかった。

 と、絶賛の嵐である。

 

松本人志が言った「これぞ漫才っていうのを久しぶりに見せてもらった。」というコメントに、この漫才の真髄が詰め込まれている。この漫才が何より面白くて興奮させられた要因は、人と人の面白い会話を聞いているような、漫才本来の姿が、その心地よさがネタ全体に溢れていたからである。

 

M-1グランプリ初代王者である中川家の礼二は、漫才は「喫茶店での会話の延長」が理想であると話したことがある。どこまでも等身大の自分たちという体を、あくまで「日常会話」のバランスを崩さずに話を続ける。それが王道と言われる「しゃべくり漫才」の型である。

 

そして、その議題と話す姿勢が反比例すればするほど笑いは生まれる。つまり、議題バカバカしければバカバカしいほど、それについて真剣な議論を交わす二人は面白くなる。サンドウィッチマン富澤のコメントにもあるが、大の大人が「コーンフレーク」についてああでもないこうでもないと言い合う姿はそれだけでも十分な威力があるのだ。

 

しゃべくり漫才はM-1におけるストロングスタイルであり、それを高速に迅速に行うことが出来るコンビは実力派とされた。M-1の歴史はスピード化の歴史でもあった。

 

二〇〇八年、決勝に出場したナイツは「宮崎駿」というネタをやり、松本人志に「四分間に何個笑いを入れとんねん。」というコメントをもらっていた。それに対し塙は「三七個ぐらいだと思います。」と答えた。6,5秒に一回はボケを入れる計算となる。M-1は四分間にどれだけの笑いを数詰められるかの勝負であった。

 

しかし、近年、そのスピード勝負も頭打ちになっていたような気がする。今年の大会が終わった後、審査員の上沼恵美子は次のようにコメントした。

「ものすごく例えが失礼なんですけど、昨年までは鶏の決闘みたいな、そんな漫才がほとんどでしたね。早口で奇声あげてみたいなのばっかりだったので、耳痛かったし飽きてきた。ところが、今回はちゃんとした寄席を見に行っている気持ちになった。」

 

スピードの中では多少のズレは誤魔化せる。若さと勢いを売りにまくしたてるような漫才コンビが決勝に多く残るようになった。そういったマシンガントークが流行なのだとしたら、ミルクボーイは一発一発、確実に脳裏に打ち込んでくる「スナイパー」漫才だと言えるだろう。

 

コーンフレークの弾丸は心を撃ち抜いた

ナイツ塙曰く、M-1は100メートル走だという。では、史上最高時速を叩き出したミルクボーイの走りを見てみよう。

まずはスタート。「オカンが好きな朝ごはんの名前を忘れた。」という駒場のために、内海が一緒に考える為に駒場からその特徴を聞き出すという流れで始まった漫才。

駒場が「甘くてカリカリして牛乳とかかけるやつ」と特徴を伝えると、内海が「コーンフレークや」と答える。これは日本国民の共有感覚であり、聞くものは皆「おそらくそれだ」と納得が出来る静かな立ち上がり。続いて内海の答えを聞いた駒場が「オカンが言うには、死ぬ前の最後のご飯はそれで良い」と言っていたという情報を伝えると、「ほな、コーンフレークとちがうかぁ。人生の最後がコーンフレークでええわけないもんね。」と否定する。そこで漫才のシステムを観客に理解させる。

続いて「コーンフレークはね、まだ寿命に余裕があるから食べてられんのよ」とギアを少しづつ上げていくことで、観客は右へ左へと流れるような二人の会話に引き込まれる。

 

みんなが認識している。けれども詳しくは知らない。幼い頃抱いた「コーンフレーク」への憧れや違和感、そして偏見。二人の優しい悪意によってどんどんそれらが分析され白日の下に晒されいく。それを見る時、人々の心には「共感」を超えた新たな笑いの境地が広がっている。

 

そしてフィニッシュ。「コーンフレークではない」と駒場が完全に否定するというところでトップスピード。少し間違えれば「じゃあ今までは何だったんだ」と大転倒しそうなところだが、その後の「申し訳ないな」というのがとても良いバランスで姿勢を保っている。二人の関係性を示す会話のリアリティがここに示され、観客はどこまでも「リアル」を保ったまま、二人の会話を聞き終えられる。

 

お互いに外見の特徴もありながら、ネタ中は全く触れない。ネタ、話術、二人の個性が存分に発揮された「喫茶店での会話」であった。

 

結果、二人の漫才は史上最高得点「681点」を記録。100メートル走なら6.72秒といっていいだろうか。世界記録を樹立した。文句なしの一等賞だ。

 

 最終決戦では、すでに観客はこのシステムを理解しているため、先程より短時間でオカンが分からないものを一緒に考えてあげる時間に入った。この漫才のシステムは、仕組みを知られていたとしてもそこまで不利になるものではない。逆に、システムを理解したからこそ、次はどんな言葉が飛び出すのだろう。どのような否定・肯定が繰り返されるのかと、その待ち時間すら楽しみになってしまっている。

 

一本目よりも二人のラリーが多く、かつ、最中の複雑な家系図、人間(?)関係など想像を発展させた子供の「ごっこ遊び」のような笑いも織り込まれている。一本目をミルクボーイの基礎とするなら2本目は発展型。また、一本目は、コーンフレークに対する悪意と偏見に満ちたドキュメンタリーなものに対して、二本目はおかしの家や、家系図というSF・ファンタジーじみたワードが飛び交っていたのも面白い変化だった。

おそらく人生で一番「最中」という単語を聞き続け、挙句の果てに「こうやって喋ってたら食べたなってくる」「ほな最中とちゃうやないか。だーれも今、最中の口なってない」という言葉で稲妻を落とされた。

 

面白い。この一言に尽きる大会でした。音楽や文化が国境人種を超え混ざり合っていくのと同様に、漫才も日々進化し、人間の生活に合わせて形を変えていっている。「これが漫才。」「アレは漫才ではない。」などという考えはもはやないと言っていい。漫才の多様性が見えた大会でした。ミルクボーイにはその先駆者として、できればバラエティ番組というよりも、ずっと劇場で面白い漫才を続けてほしいと思います。

 

言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)